10/7-8 @ 地元

40歳を過ぎても通過儀礼があるというのはなんか変な気がするけれども,自分にとってはそんな気持ちで地元に帰った.

地元の祭りの主役は厄年の者たち.お世話になった皆さんにお礼を言ったり,ふるまいをするという機会.ちょうど今年それにあたる.いわゆる42歳の厄年なのだ.10月7日に宵祭,10月8日に本祭が行われた.

ちなみに,25歳の厄年とその前厄の24歳のときにも祭りに参加している.25歳の厄年のときはまだ学生で,東京に住んでた.その後,自分は留学して,豊橋,東京,石川,東京と職場を転々としながら何とか生活している.あまり地元に帰ることもないので,このような機会に同級生と会えるのはうれしいし,ありがたい.準備については何も協力ができなかったけど,暖かく迎えていただいた.感謝の念に限りはない.

地元の祭りの本当の主役は山車で,http://tamaguruma.blog51.fc2.com/ に山車保存会の活動が紹介されている.厄年の者も山車の巡行を手伝うことになっている.宵祭のときには今年新調した提灯がともされた.この提灯は私たち厄年の者から贈らせていただいたもので,それがきれいについたときにはうれしかった.また,本祭のときには,新川町駅からあいくるまで舵棒に入れてもらった.こんな経験はめったにないので,本当に楽しんだ.なお,この舵棒はかなりの力仕事で,運動を普段しない身にとってはなかなか辛い場面もある.この区間はちょっとした上り坂でもあったのだ (もちろん知ってたけど).

山車の巡行はその後も続き,最終的に神社の中で引き回しを行う.これは勇壮な場面であって,祭りのクライマックスの一つでもある.24歳の前厄のときには引き回しで舵棒に入っていたことを思い出す.まだ若かったから動けた.今年はやぐらの上から声援を送った.無事に3周の引き回しは終わり,その後,三番叟の奉納が行われた.

そしていよいよ,祭りのもう一つのクライマックス,餅投げ.これをやらないと厄払いができないし,それをするために来てるのだということを忘れてはいけない.やぐらの上から投げている最中は,テンションが上がりまくって,「声が小さい!」とか叫んだりしていた.運動を普段しない割に,遠くまで餅が投げられていた気がして少し驚いた.そうこうしているうちに,餅投げも終了.その後は景品交換を行い,板流しを経てその日に予定されていた内容はすべて終わった.ちょっと興奮状態にあったのか,疲れているはずなのに,すぐ寝るということはできなかった.

いまは心地良い筋肉痛に浸っている.この痛みが引くまでは余韻を味わいたい.

この祭りと山車の巡行に多くの人々が携わっていて,自分がそのような文化的土壌で育ってきたのだということを改めて深く感じさせてもらえた.一方で,厄年に参加する人が減ってきているようで,それは残念な気分にもなる.もちろん,この日のために長期間積み立てをして,それはそれで大変であるし,当日までの準備も (私自身は全く協力できていないが,想像するだけでも) 気を配る必要のある細かいことはいくらでもある.私自身も,いまとなっては転居を繰り返し,地元へ頻繁にかえるわけではないという暮らしをしている.しかし,この42歳の厄年の祭りはやらなくてはいけない通過儀礼のようなものだと位置づけていた.今年,山車の先をひっぱる縄の先頭を取り合う少年たちを見て,昔,自分が子供の頃,山車を見にいったり,餅投げにいったときの記憶が蘇ってきた.自分の根底に残された故郷に対する思いに気付かされた.その子たちが大人になったときに思い出せるような記憶を私が与えられたのか,正直なところ自信はないけれど,それを積み重ねていかなければ,文化は継承していけないのではないかと感じた.