証明
数学 (みたいなこと) を生業としていると,証明というものにずっと付き合うことになる.
これはよく知られていないことかもしれないけど,証明は書き手と読み手のコミュニケーションであって,どちらかが一方的な感覚を持つと証明は全く理解できないものになる.
証明には,「正しい証明」と「正しくない証明」がある.
数学の論文に現れるのは (理想的には) 正しい証明のみで,そういう意味では正しくない証明には価値がない.
正しいか正しくないかというのは論理によって定まるので,人間として主観的なコミュニケーションが入り込む余地がない (と思う).
一方で,「追える証明」と「追えない証明」がある.
追える証明とは検証可能な証明で,追えない証明とは検証ができない証明である.
正しい証明であるから追えるとは限らないし,正しくない証明だからといって追えないということにはならない.
検証ができるかどうかというのは主観的な感覚であるので,検証可能であるかどうかというのは読み手によって異なる.
つまり,証明の読み手を固定すると,証明は4つのものに分類できることになる.
(1) 正しく,かつ,追える証明.
(2) 正しく,かつ,追えない証明.
(3) 正しくなく,かつ,追える証明.
(4) 正しくなく,かつ,追えない証明.
読み手として,このなかで一番困るのはどれだろうか?
追える証明は検証可能なのだから困らない.それが正しかろうと,正しくなかろうと.
なので,困るのは追えない証明である.
追えない証明の中でも,正しくない証明は,困ると言っても困る度合いが限定されている.
というのも,それは正しくないので,正しくないことを指摘できればよいからである.
なので,最も困るのは,正しいけれども,追えない証明である.
これは正しいので,それが追えないのは読み手の力不足なのか,はたまた,それが書き手の力不足なのか,大体分からない.
これも案外知られていないことかもしれないけど,そういう証明を多くの数学者が平気で書く.
なので,読み手としてはとてもむかつく.
書き手から一方的に「この証明は追えるだろう」と言われている気がするが,大抵それに反論する場はない.
そういうものを追わなくてはいけないというのは大きな労力を伴う.
そういう意味で,証明というのは正しければよいというものではなくて,追えるということがとても重要である.
私の指導教員は言った.
よい証明とは,正しくないときに,正しくないことを簡単に指摘できる証明のことだ,と.
貴重な教えだと思う.